それでも恋するバルセロナ [映画 le cinema]
バルセロナ、それは、恋の場所である。まだ、頭の中で、この映画のテーマソングが回っている。私たちが思い描く、ラテン気質の陽気な雰囲気、それがスペイン。その中でも、ガウディの建築を随所に入れながら、バルセロナでの恋、愛を描く本作品。さすが、ウディ・アレンである。しかし、バルセロナではなくてはならない必然性はこの映画にはない。どこでもいい。得意とする、ニューヨークでも、ロンドンでも。それが敢えてバルセロナを選んだ、ウディ・アレン。
この映画を通してみると、バルセロナという場所から思い描くラテンの陽気さよりも、ガウディやミロらが創出した、アンビヴァレントな(現代)芸術作品と、人それ自身のアンビヴァレントさを演出するためには、バルセロナなのだ、と思うのです。主人公が恋するのは、芸術家であり、成り行きの三角関係の、それでもそこに調和がとれた関係は、たとえニューヨークであったら、もっといやなものに描かれてしまう可能性があります。しかし、バルセロナ。バルセロナだったからこそ、この映画の、さまざまなアンビヴァレントさは、不安定さのなかでも主張している気がするのです。人はそれぞれ、諸要素が組み合わさっていて、私は私であると。
この映画を通してみると、バルセロナという場所から思い描くラテンの陽気さよりも、ガウディやミロらが創出した、アンビヴァレントな(現代)芸術作品と、人それ自身のアンビヴァレントさを演出するためには、バルセロナなのだ、と思うのです。主人公が恋するのは、芸術家であり、成り行きの三角関係の、それでもそこに調和がとれた関係は、たとえニューヨークであったら、もっといやなものに描かれてしまう可能性があります。しかし、バルセロナ。バルセロナだったからこそ、この映画の、さまざまなアンビヴァレントさは、不安定さのなかでも主張している気がするのです。人はそれぞれ、諸要素が組み合わさっていて、私は私であると。
コメント 0