テート・ブリテンにて [アート art]
外を歩いていても仕方ないし、さらに風が強かったので、美術館巡り。雨の日は、美術館、博物館でじっくり鑑賞、に限る。特にロンドンは、公立の美術館、博物館は、常設展が無料なので、とても助かるし、なんと言っても、"気軽に行ける"のだ。
始めに行ったのは、
テート・ブリテン。
チューブの駅から降りて歩いていたら、同じ方向を歩くおぼさん(欧米の方)に、
"テート・ブリテンに行くにはどのように行けばいいのか"
、と尋ねられた。
いつも、どこか行けば、尋ねられる。その街と同化しているのだろうか。そんなハズはない、とは思っているのですが。。。
(パリに行けば、ノートルダムはどこか、と尋ねられ、香港に行けば、この教会はどこかと尋ねられ・・・)
私自身も少し迷い気味に(しかも、雨の中で傘を差して歩いていたら、方向がよくわからなくなってきた)歩いてた。
でも、その目の前には明らかにテート・ブリテンらしい建物があったので、
"たぶん、この建物だと思いますよ"
と答えた。(実際、その建物であった)
私の顔を見て、不安そうだったのか、「一緒に行ってみよう」ということになり、少しではあるが、二人で歩くことになった。
有名な正面玄関が見えたが、警察とパトカーがいたりして、何か不安になり、チケットカウンターのある入り口に行くことにした。(今回はそれが正解だったようだけれど)
私は、特に特別展を観ようとは思っていなかったので、無料展示のみを観ることにした。知ってのとおり、無料と言えども、日本で、東京で観るときには入場券が必要な作品ばかりである。
そして、何より展示されている作品の数である。じっくり観ている余裕などない。けれど、すべてを観たい、そんな欲望の中で回らなければならない。これは、かなり至難の業なのだ。
午前10時半からその"闘い"は始まった。
すらり、と観てしまえばできないことはないけれど、でも、じっくりみたいものもある。なにしろ、展示室がたくさある。そして、広い。それも、無料だ。
テート・ブリテンに展示されている絵画のなかで、日本でもおなじみのものは、ミレー「オフィーリア」。昨年になってしまったが、東京にもきた。
あとは、ロセッティの美女像「プロセルピナ」。まだまだ観ると、あれ、これ、と思うものがある。
そして、忘れてはいけないのが、
ターナー、コンスタブル を中心に(特に、ターナー)した英国絵画。
UKは、ターナーを初めとした、自国の作家を大事にする。テート・ブリテンでも、ナショナルギャラリーでも、コートールド美術館でも、UK作家のコーナーがある。そして、訪れる人たちに、「イギリス美術を発見させてくれる」。こんなにもUKの芸術家がいたのか。そして、フランスやスペイン、イタリア、など他のヨーロッパの作家にも負けず劣らず(という表現がよいのかどうかわからないが)、興味深い作品を残している。
その最もわかりやすいのが、ターナー。
ターナーの絵画というと、アンビバレントな画である。
そう、このターナーこそ、イギリス絵画の中で最も愛されて、尊敬されている画家なのだ。
テート・ブリテンでは、ターナー賞を設けているし、ターナーの部屋もある。
ナショナル・ギャラリーもそう。
今回は、コートールドも、ターナーの水彩画展もやっていた。
ターナーがすべて、とは思えないが、ターナーがイギリスの絵画会に与えた影響は大きいのかもしれない。
テート・モダン(日本語もあり)
コートールド美術館
ピカソ展 (サントリー美術館編) [アート art]
国立の展示内容はじっくりみていないけれど、結果的に、サントリー美術館でよかったかもしれない。
そういえば、パリに行くと、たいてい、ピカソ美術館の前までは行く。前までは、というのは、行くときに限って、閉まっている、から。
閉まっている、という状態は、いくつかあって、単に閉館していた、というのと、ストライキが近くであって、影響が及ぶから、という理由の閉館(CPEの時、学生ストが収まってから行っても、閉館していた。これって、ただ休みたいだけなんじゃないかな、と思ったり・・・)。
さてさて、サントリー美術館に着いたのが、18時40分ころ。
さすがに、人もまばらですよね。昼に行ったら大変だったと思いますが、スル〜と入れました。でも、20時までですから。そのあたりは少し急かされたり。
館内でも、ゆっくり観ることができました。やっぱり、こういういろいろと宣伝している展覧会に観に行くためには、それなりの時間に行かないと、ゆ〜っくり観ることができないなぁ、と思いますね、(次の日行った、フェルメール展で実感)
内容的には、ピカソ全般を網羅して、ていうところでしょう。彼は、大変正直に作品を創っていることがわかる、そんな展示内容です。
彼の初期は、肖像画なんかの筆致は、精緻・緻密。この精緻さ、緻密さが後のピカソの作品へと展開していくんだ、と理解することができますね。デフォルメされた対象が有名ですが、スケッチ、エッチングなんかは非常に精緻なことからも、彼の視線、そして、その先にあるカンバスに創造される(創造された)ものは、否が応でも私たちと対話を申し込んでいます。
それが、見た目、よくわからないもの、のように見えても、ピカソの作品のタイトルと作品にちりばめられたヒントによって、作品に潜む主体を私たちは想像させられる。
すでに、この時点で、私たちはピカソの意図の中、頭の周縁にいる。
わけがわからないからこそ、そこに何かがある。現代美術の旗手としてあまりに有名なピカソの創造したモノを、私たちは体感する。
パリのピカソ美術館が閉館中に貸し出された今回の大ピカソ展、ピカソと対話する価値はある。
ピカソ展 総合
サントリー美術館・ピカソ展
ダ・ヴィンチ・コード展 in MORI Art Museum,Roppongihills [アート art]
いよいよ世界的なヒット作となったダン・ブラウンの小説『ダ・ヴィンチ・コード』が5月20日、世界一斉に上映されます。それに先駆けて、六本木ヒルズ森タワー森美術館で、『ダ・ヴィンチコード展』が開催されています。
ほぼデジタルミュージアムで、映画で使用されたクリプティクスも展示されています。デジタルミュージアムのほうは、銀座のソニービルでも同じような展示をやっているので、そちらもいい。最も見たかったのは、クリプティクスのほう。小説は、映画化されるってことで、文庫版を待っていたのですが、なかなか出ず、単行本を昨年11月に購入、読み終えました。公開が近づいてくると、やっぱり「文庫版」が・・・・。3冊にするか、単行本上下2冊にするか、悩みどころですが、文庫本はランキング1位ということで、人気の高さと文庫版を待っていた人が多かった?のと、公開間近であることが重なってのことだと思います。
ということで、森美術館、厳密にいうなら、森アートセンターです(入場料が別にかかります)。連休中ということもありましたが、人人人。もちろん、となりの『ベルリン東京展』も、東京シティビューもにぎわっておりましたが、別料金で高いにもかかわらず、こちら『ダ・ヴィンチコード展』も盛況!でした。まあ、GWですからね。
こちらとしては、あの「クリプティクス」なるものが見たかったので、ほぼそれが目当てで、あとは、原寸大のデジタル「最後の晩餐」ですね。
実際は、、、、
「クリプティクス」。おお、なるほど、これが、クリプティクスか!!これが割れると中の紙が溶けるんだなぁ、なんて思いながら、実際映画で使用したものもあったので、劇場で観るときは、心してみないといけません。
で、次のお楽しみの「最後の晩餐」。プロジェクタで投影された「最後の晩餐」なのですが、説明付きなので、入場制限(上映時間)があるというなんだか変な展示。工夫を凝らしたつもりでも、原寸大「最後の晩餐」だけ楽しみにしていたのに、、、。「ダ・ヴィンチコード」で解かれている暗号の説明も付いているとは・・・・。これは、実際、見に行けってことですか・・・!!
イタリア行ってやる!っとこのときばかりは思いました。
映画「ダ・ヴィンチコード」のほうは、あまり評判がよくないようですけれど。
↓ダ・ヴィンチコード関係の本、、、いろいろありますね。
「ダ・ヴィンチ・コード」 謎を解く旅への招待 --ラングドン、ソフィーと巡るパリ・ロンドン
- 作者: ダン・ブラウン
- 出版社/メーカー: ゴマブックス
- 発売日: 2006/04/14
- メディア: 単行本
モダンアートの楽しみ方 [アート art]
ダンアート,現代美術については,好き嫌いが多いように思います。嫌い,あるいは,展覧会に行かない理由の一つに,「わからない」というのがあるように思う。見てもわからない,それが一つの理由。そんなことがあるのではないだろうか。
そこで一つ提案したい。「わからない,でいいんだと」。つまり,わからないからこそ,現代美術が存在するのだと。
それまでの,とくに日本人に人気があるフランス印象派の作品。日常を描き,そして,彩色は概ねキレイ。だから,わかりやすい。理解しやすい。作者の意図が何も考えず伝わってくる。それに対して,現代美術は,わかりにくい。抽象的。イイ言葉です。わからないモノに対してつく言葉。「抽象的」。それは,実は,作者と観る人との間のコミュニケーションでもあるわけです。わからない。そして,それについて,「なんだ,これは?」「何を作ろうとしたんだ,この作者は」「作品名から,全く想像できない」と思う,考えるようになる。そこに作者が狙った意図があります。作者と観る人との間に生まれる,作品を通してのコミュニケーションこそが,現代美術であるのではないかと思います。最近,メディアアートが流行っていて,そこにいくと,映像や音声などが複合して私たち観る人に降りかかってきます。驚きやどうなっているのだろう,と考える,,etc。作者の伝えたかった意図・意志を考える,それこそ,現代美術が作者と私たちに課したコミュニケーションの創造なのだと思います。